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梅田神明宮

東京都 足立区 梅田6-19-4



 

 当 宮 の 歴 史

梅田神明宮
 創建は、慶長年間(一五九六〜一六一五)と伝えられています。最初、地主神を勧請されましたが、明暦三年(一六五七)の江戸の大火、宝暦十年(一七六〇)の江戸の大火に、二度とも芝神明宮(現在の芝大神宮)が類焼し、その何れかの火災の折、御神体を一時的にこちらの境内地内に遷座されたことから、新たに神明社として建立されたと伝えられており、後に梅田神明宮と申し上げるようになりました。

 御祭神は天照皇大神、相殿に井上正鐵霊神を配祀しています。
 
 天照皇大神は、伊勢神宮に奉祀されている私たちの祖神(おやがみ)様で、神代の昔、天の岩戸に籠もらせられて、その御修行によって、天津神、国津神の御神徳を得給いて、慈愛の御心を以て総てのものを抱容し、悔い改める過ちは御容(ゆる)しなされ、正しい願いは必ず成就させて下さる、あらかたな神様で、最高の貴神と崇められています。

 境内右の手水舎には、文化十二年と刻まれ、文化七年(一八一〇)から文政十一年(一八二八)の間に徳川幕府により編纂された新武蔵風土記には、神明社と記載されています。

 配祀の井上正鐵霊神は神祇伯白川伯王家に入門され、神職の免許を得た後、梅田神明宮の神主となられました。天保十一年(一八四〇)四月十五日に弟子の野澤鐵教(のざわかねのり)、三浦隼人(みうらはやと)等を連れて、梅田神明宮神主として御奉仕なされましたが、当時、梅田は江戸の東北に位置する辺鄙な村でした。御奉仕して間もなく、井上正鐵の人徳を敬慕して、丹後の宮津藩七万石の藩主伯耆守(ほうきのかみ)松平宗発(むねあきら)、嗣子宗秀(むねひで)を始め大名、梅田近在の名主、庄屋、市井の庶民に至るまで、あらゆる階層の人々が入門して教えを受けられました。

 信望頓に高まるにつれ、蝟集(いしゅう)する信者後を絶たず、幕末騒然たる折柄ではあり、遂に幕府の忌諱(きい)に触れ、天保十二年(一八四一)十一月二十四日、寺社奉行与力同心より、神主井上正鐵を始め、奥方男也(おなり)、弟子三浦隼人夫妻等、逮捕拘引され、小伝馬町牢屋に投獄され、厳しい取調べを受けた三浦隼人は同年十二月二十四日に獄死し、男也と三浦夫人は同日釈放され、正鐵は翌年二月十六日に一旦釈放されましたが、同年十一月二十八日には再逮捕されるにおよび、遂に天保十四年(一八四三)二月九日、寺社奉行により遠島申し渡され、同年五月二十五日江戸を離れ、三宅島へ流罪人として送られ、嘉永二年(一八四九)二月十八日、世の為め人の為め、心魂を凝らして御祈念なされた梅田神明宮に帰る事なく神上がられ、かぞえ六十歳の御生涯を孤島三宅島伊ヶ谷にて終えられました。

 徳川幕府の投獄の理由は、「新義異流を以て、庶民を惑わす」との事でしたが、正鐵が梅田神明宮に奉仕して僅かの間に、澎湃(ほうはい)として広まる教勢が、やがて倒幕の勢力と転化してはと疑い恐れて弾圧の暴挙に出たものと推察されます。幕府役人の偏見短慮が偉大な聖(ひじり)を南海の小島に葬ってしまいました。

 現存の奥殿が由緒深き奥宮で、正鐵が在世中に心魂込めて御祈念された御社殿です。その御社殿の隣には、正鐵が住まわれた家屋が、幾度かの修繕を経て、今も残されています。また、鳥居は明治三十年に建立されたものです。奥殿、正鐵霊神ご旧宅、鳥居。これらの建物は、大正十二年の関東大震災の折も、さらには、第二次世界大戦の空襲により周辺一帯が火の海と化した時も、類焼を免れ、今日に至っています。

井上神社
 御末社は正鐵を始め、男也、真鐵夫妻、三浦隼人夫妻等の御霊を合祀した御社で、大教正平山省斉謹書と書かれた「井上神社」の掲額があります。


井上神社の由来書
 慶応四年二月十八日、神祇伯白川資訓(すけのり)王が、井上正鐵霊神の遷霊の儀を執り行いました。其の旨を神具に御署名なされ、副幹には、武蔵国足立郡梅田村禊祓霊舎に祀るとしたためられ、書頭には、天皇の御印と伝えられる押印があります。




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