梅田神明宮
東京都 足立区 梅田6-19-4
井上正鐡(いのうえまさかね)霊神(みたまのかみ) ※「霊神(みたまのかみ・れいじん)」は実在した人物を神様としてお祀りするときに用いられる尊称です。 寛政二年(一七九〇)八月四日、江戸日本橋浜町の山形藩秋元家中屋敷にて、勘定役安藤真鐵(あんどうまがね)の次男としてお生まれになりました。 父の真鐵は国学者の賀茂真淵の弟子にして、国学を究めし碩学の武士ではありましたが、藩の財政を預かる立場から、当時の地震や飢饉等の天災による庶民生活の窮乏に心を痛め、物心両面に渉る救済に思い煩い、常に夜の明けに至るまで同志の人たちと談論されました。 日頃父親と寝起きを共にしていた幼少の正鐵は成長するに及び、救世の情熱に燃え、国学、禅学、医学、易学、観相学、調息法、槍術等、幕末著名の諸師に学び、其の奥義を極めた後、白川家に入門され神拝式許状を授かり、天保十一年(一八四〇)に梅田神明宮の神主となられました。 そして、天照皇大神のご神徳を奉じて祓修行を行ずるならば、誰もが信心を得て救われるとする民衆教化の活動を、この梅田神明宮で実践されたのです。これが後に明治政府より布教を公認され、全国にその教えが拡がった禊教(みそぎきょう)といわれる教派神道の活動です。 神道の伝統、そして祓修行という独創的な行法を通じた呼吸の鍛錬と精神修養、さらには粗衣粗食などの生活指導を基本とするその教えはたちまち民衆に広まり、貧しい者や富める者、また農民から有力幕臣まで、身分を越えて多くの人々が入門しましたが、やがて幕府の嫌疑を招くこととなり、寺社奉行による取り締まりを受け、天保十四年(一八四三)に三宅島へ遠島され、嘉永二年(一八四九)、帰幽されました。 取り締まりの際に釈明書の提出を命じられ、真意を伝えるため正鐵霊神が著述された問答形式の教義書「唯一問答書」および、三宅島から本土の門弟へ宛てた数々の手紙が禊教の教典となって、その教えは後世へと受け継がれています。 |
三宅島にて、日照りに苦しむ島民から降雨祈願を求められ、実際に祈祷を行ったところ、恵みの雨がもたらされました。 この絵は、明治二十一年一月、市村座の改築開業公演の際に、「新開場梅田神垣(しんかいじょううめだかみがき)」という演目の中で、劇聖九代目市川団十郎が演じた、三宅島泉津山での井上正鐵霊神雨乞いの像です。 明治二十三年四月十八日深川禊教会社中より献納。 |
谷中霊園(東京都台東区)の井上正鐵霊神奥都城。 父の安藤真鐵(あんどうまがね)と共に眠る。 |
梅田稲荷神社(東京都足立区)の井上正鐵霊神奥都城。 妻の男也(おなり)、高弟たちともに眠る。 |
三宅島伊賀谷の井上正鐵霊神奥都城。 高弟の笹本久右衛門(ささもときゅうえもん)と共に眠る。 |